Inquietude 気がかり
ご無沙汰しております。 怒濤の日々が過ぎ気がゆるんだせいか体をこわして3、4日寝込んでしまいました。 今はものすごく元気です。みなさまは、そしてみなさまの心象風景はお元気でしょうか。ほんのりと気がかり。
そんなこんなの引っ越し荷物を整理しているうち(4月19日コラム参照)、所有する辞典の類いに、今日に至るまで、2・3度しかページを開いていない本が2冊ほどあるのに気づきました。ひとつは『図解 世界楽器大辞典』(雄山閣)、定価4500円。仕事の資料に1度開いたきり。値段が高かったので処分もできず、本棚の一番端がその定位置となっています。 もう一冊は『比喩表現辞典』(角川書店)。資料として10年前に購入しました。外函にはこう印刷されています。「比喩は心象風景の点描である」 へー、と感心して頁を開きました。10年前の私もそうしたことでしょう。川端康成、林芙美子、小沼丹から村上龍、吉本ばなな、そしてなぜか椎名桜子まで、近代以降の小説から喩の用例(そのほとんどが直喩)約8000例を系統立てて分類しテーマ別に示してあります。たとえば[死ぬ]という項には
7440 捨てられた猫のように死んで行く(梅崎=桜島 *1) 7441 人間が犬のごとく死んでいるのではなく(坂口=白痴 *2) 7444 消えかかる松明の火のように静かに息をひきとったのである (芥川=偸盗*3)
また[私]という項では 1572 私は一瞬間木偶(でく)のように立っていた (小田=城外*4) 1574 私は、人々からあの使い捨てられた、おかしなしかしいやらしいゴム製品であるかのように眺められ、観察されているのを感じた(椎名麟=美し*5) 1607 あたしは森を迷う仔羊みたいなもの、どこにいても落ち着かない(村上龍=恋は*6)
という具合に例文があがっています。 (引用者注 *1 梅崎春生「桜島」、*2 坂口安吾「白痴」、*3 芥川龍之介「偸盗」、*4 小田嶽夫「城外」、*5 椎名麟三「美しい女」、*6 村上龍「恋はいつも未知なもの」ちなみに島は2、3以外は未読)
はっきり言うと、本書は使い尽くされ寿命を終え死んでしまった比喩たちの標本辞典だったのです。(ただ個人的に1574 は面白い。「私」が生真面目に嘆く分どこか笑いをさそうのですが、発表当時この下りは笑う箇所ではなかったはず。)偉大な芸術家のどんなに優れた表現であれ、時代を超えて命脈を保つのは非常に困難なはずだと私には感じられるのですが、死んでしまった喩を例示する本書の帯文には『生き生きとした文章を書くために、格好の資料』とあります。 えー。 著者は中村明さんといって、文体論、特にレトリックの分類について優れた研究をされた方ですが、そのことと中村氏がこの本で示した文章が生きた表現であるかどうかはまた別の問題なのです。これはとうに死んだ蝶の標本を見せ「さあ。このようにしてごらん、飛べるから」と言うようなもの。むしろ私は10年前の自分自身に言うべきでしょう。その本の中にはお前の心象風景の点描は存在しないのだから、表現を試みるならその本を買ってはいけないと。 定価は2800円です。捨てるに捨てられず我が家の本棚の『世界楽器事典』の隣に、古びた心象風景を閉じ込めたまま立てかけてあるのです。
+25 Easy Etudes, N゜18
あなたの気がかりな心象風景を比喩をつかって短歌にしなさい。 |