短歌ヴァーサス 風媒社
カレンダー 執筆者 リンク 各号の紹介 歌集案内

★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
← 2006.5.16
2006.5.17
 
2006.5.18 →


島なおみ

 
Ave Maria  アヴェ・マリア

 「聖五月」という言葉があります。カトリック教会が聖母マリアを祭って、五月を聖母月と定めていることからでしょうが、復活祭を終え、新緑がすんすんと葉をのばしゆく明るい季節。でも、冬の低めの太陽の光になじんだ目には、この明るさが目眩のように取り付いて、少し物憂い季節です。
 ゆうべ歳時記でこの俳句を見つけました。

 耳の五月よ
 嗚呼
 嗚呼と
 耳鐘は鳴り  高柳重信

 三半規管に響くような作品です。この俳句が、教会の鐘楼が繰り返し鳴らす鐘の音のようにも読めるのは、多行形式という表記の効果でしょうか。
 耳鐘には「じしょう」とルビが振ってありましたが、地方によっては耳鐘(みみがね)といって、突然襲う耳鳴りを差します。同年代の人間が亡くなったときに聞こえるといの言い伝えがあるとか。

 (高柳重信全句集、定価13,650円[税込])
 (嗚呼)
 (嗚呼)
 (買えない)
 (でも欲しい) 島なおみ

 詩人の北川透さんが、『詩的レトリック入門』(思潮社)の中の「余白論への試み」という文章の前半で、俳句が自ずから身にまとっているメタファとしての余白について書かれています。私なりに要約すると俳句ほどの短い詩で改行をするとリズムは失われ、切れや切れ字が生み出していた俳句独特の余白の効果が薄れてしまう、ということです。このあと「メタファとしての余白」という言葉自体がメタファとなって、詩の中にひそむ様々な『ひと呼吸』とでも言うべき箇所に当てはめられてゆき、それこそレトリカルで面白い文章です。ただ、多行形式の前衛俳句に俳句解体以上の面白さはないと述べる一方で、前衛短歌が時に試みた多行形式には触れられていません(判断保留?)短歌の多行形式の場合、これはどうなるんでしょうか。

 疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ  
               葛原妙子 『朱霊』より

 葛原妙子さんの有名な一首です。改行こそされていませんが、「マリア」というひとりの人物名を読点で区切っている点で、また「聖マリアという意味」そのものを分断している点では、三行改行の石川啄木作品よりも強引に、短歌に余白を付加しているはずです。
 おっと、字数がつきたので、この続きは宿題にします。また来週。

 +25 Easy Etudes, N゜19

 上の一首からどのような印象をうけるか。特に下句の表記はどのような効果をあげているか考えなさい。それが自分にとって面白いか面白くないか理由も合わせて述べなさい。そして一字あきや読点で言葉を区切った短歌を一首つくりなさい。
← 2006.5.16
2006.5.17
 
2006.5.18 →