品川
品川で乗り換えたとき虫籠のなかのわたしも少し震えた (田中槐)
この非現実感に充ちた情景は、デフォルメされたマンガのひとこまのようにさらっと読むべきか。虫籠はもちろん比喩であり、わたしは虫籠めいた状況にわたしを閉じこめている誰かに連れられて電車を乗り換えた、ということなのだろう。どこから品川に来てどこへ向かったかはよくわからない。ただ、具体的な駅名/地名が入ることにより事態が具体化されて、比喩でしかないはずの虫籠があたかも実際の虫籠であるかのような錯覚を生じさせている。ことばの勢いで書いたのだとも思われるけれど、その勢いが一首をいきいきとさせているらしい。 田中槐の第二歌集『退屈な器』(鳥影社)のこの一首を含む一連「千年/十年」には、他にも「虫籠のような小さな部屋にいるきみの愛から飛べないとんぼ」といった作品がある。そちらはどうも巧くできているとは言いづらいけれど、朗読のために書いたという一連のなかで、二首いずれも、何が耳/聴覚にとっての秀歌の条件であるのかを模索しながら書いた結果なのだろうと思う。
くるぶしは遠い父祖からいただいた塊なれば、咬んでみますか 渾身の夕焼けである水分が抜けてゆくまでたそがれている 水色をからだに足していくような雨の日でしたお別れの日は カタンっと音して止まる洗濯機ことばのほうにかたむいてみる
引用はすべて『退屈な器』から。作者がしばらくこだわり続けている朗読が要因か、文体の変化が先なのか、そこのところははっきりしないながらも、韻文としての快いリズムとは別種の、言わば散文としての快いリズムが巧く短歌に組みこまれている。意味を超えた場所に一首の焦点があるため、いっそうリズムの快さがきわだっているようだ。
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