短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
イメージを喰う

  明治屋に初めて二人で行きし日の苺のジャムの一瓶終わる
                    俵万智『チョコレート革命』
 このジャムは舶来物のそりゃうまいものなんだろうな、と想像する。手作りのジャムでもコンビニやスーパーで求めたジャムでもなく、明治屋に出向いて買ったジャムを空になるまで食べ尽くす、などと考えると、深読みの深読みが進行して、作品の背後に流れる時間の意外な長さにたどりつく。
 明治屋に買い物に行くのは楽しい。輸入食品が所狭しと並んだ店内にはともすればどうやって食べるのかわからないものもふんだんに置かれている。かつてより海外旅行が身近になったとはいえ、海外の日常生活というのはいぜん未知なるもので、明治屋の食品がたたえているのは海外の日常というイメージの断片なのだと思う。俵作品のなかの「明治屋のジャム」を、今ある日常からはみ出したものというイメージで読んでみると、歌集全体のトーンとの符合を嫌が応にも感じることになる。わたしたちはイメージを食って生きている。栄養源として、おいしいものが食べたいという欲求の対象として、食べた場所、食べた相手、作ってくれた人、盛りつけ、買った背景、味、感触、匂い、それらを含めた総合的な「もの」を食べている(サプリメントだって、それを摂取することで身体機能が強化されたり、化学式どおりの栄養素が体内に取り込まれていく夢想を抱いて摂るのではないか?)。
 色川武大の「喰いたい放題」に目白駅近くの路傍で卵を売るおじいさんのエピソードがある。昭和四十年代のことである。カンカン秤でひとつずつ量り売りされるその卵を、色川は帰って来るなり食べてしまう。おじいさんの汗の滲みた帽子を思い出し、申し訳なく思いながら、しかし食べるとはこういうことだと思う、と述べている。卵といえばこんな話が…と色川は書き出している。色川の持つ「卵」のイメージには、名も知らぬおじいさんが運んだ卵の味がかくれている。昔は何を食っても旨かった、などという感傷ではない。食物に対してひとが抱くイメージというものが、いかに個人的で特別なものなのかということだ。食物が登場する文章や文芸作品を読むとき、われわれは同時にそのイメージを喰っている。そういう一面があると思う。
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