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■内容説明
足元に潜む地域の歴史を掘り起こし、先人たちの遺産を未来につなぐべく、小牧の歴史・文化に関わる事象を網羅。市内で創業100年以上の営業を続ける企業や主要企業の紹介、おもな神社仏閣、観光情報も掲載した。郷土の歴史を理解するために最適の本。
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■目次
発刊にあたって 小牧商工会議所 会頭 成瀬哲夫
発刊に寄せて 小牧商工会議所名誉会頭 社本宮明
はじめに 本書の刊行にあたって
市のシンボルは信長・秀吉・家康にまつわる小牧山
織田信長の城下町から木曾街道の宿場町に
歴史の足跡は地名に刻印されている
小牧市の大きな地名の変遷は二回ある
〈小牧〉前史をさぐる
小牧地方には一万年以上前から人が住んでいた
「小牧」の起源は「帆巻」か「駒来」か?
味岡、篠岡、北里と名づけられた由来
■地域別地名・逸話ものがたり
小牧地区
小牧一丁目から小牧五丁目 (小牧の飛地を含む)
小牧一丁目は尾張藩の御料地だった
大輪の御大典記念プールではオリンピックのメダリストが練習
小牧二丁目の旧名は神社や木曾街道に由来する
原川周辺の北側は、「小牧・長久手の戦い」の古戦場跡
小牧駅西北は、戦前も戦後も娯楽の殿堂
小牧宿の中心・小牧三丁目は山車文化を継承してきた
児童たちを見守る福翁の扁額と鎮守の森の三本松
再開発の町並みに今も残る小牧火伏せ観音戒蔵院
小牧の礎をつくった江崎善左衛門宗度
小牧御殿の中に設置された小牧代官所
故渡邊錠太郎陸軍教育総監の胸像のある西林寺
市指定文化財の西町稲荷堂は、一刻も早く修理保全対策が必要
暖簾を守る店舗が多い小牧四丁目中心街
旧小牧市の中心街は、店の浮き沈みが激しい
坪内逍遥が演劇に目覚めた小牧こども歌舞伎
牛車に乗ってゼロ戦が市街地をゆく
小牧神明社は、信長が駒来神社として創建
信長が激怒したという連歌師・里村紹巴の句碑
小牧の郷土史の先覚者津田応助
小牧神明社のこども歌舞伎、七十年ぶりの復活
天明年間からはじまった小牧神明社の秋葉祭り
秋葉祭りは、夏の夜の幻想的な堤灯との風物詩である
熱田神宮の参詣がオマント神事のはじまり
幻の小牧焼は、江濃(姉川)大地震で消滅した
郷土の生んだ作詞・文筆家、穂積久の生涯
町名整理で飛地となった現在の小牧は
中央一丁目から六丁目
中央は小牧原・北外山の新田が分断併合されてできた
小牧の玄関口・中央には廃線ピーチライナーの残骸が
昭和天皇のご行幸時に使用した調度品を保管する塚原邸
小牧山吉五郎伝説の発祥を記した津田房勝
日本一大きなこまきの鐘つき大黒さん
堀の内一丁目から五丁目(曙町を含む)
小牧を象徴する小牧山には大昔から人が住んだ
戦国時代の記憶を現代に伝える小牧山
徳川家の旧藩士から中学生や青年までもが集った創垂館
国指定の史跡となった小牧山が小牧町へ
小牧山には、昭和天皇のご行幸の記念碑がある
明治時代からの英霊を祀った忠魂碑や九代藩主の墓碑
一丁目の旧庁舎を解体して三丁目に新庁舎を建設
旧城下町は小牧中や工場、商業地になりました
現代に通じる信長の町づくり
小牧山城は日本の近世城郭建築の第一号
全国に報道された小牧山の発掘調査
川西一丁目から三丁目
小牧山南山麓には商工業者が集住していた
川西は合瀬川の西ということで命名された
大山・応時一丁目から四丁目
御巡見道を中心に集落が結束した小牧大山
応時の名は中国の思想家荀子の著作に由来
大山区の地域自治と独立気運の伝統
東一丁目から四丁目
東地域は旧村時代の入会地だった
諸説ある宇田津(哥津)の語源伝説
工場誘致第一号は東海ゴム工業(現・住友理工)
桜井・桜井本町(若草町・掛割町を含む)
農村の風情を残す「さくらいの里」
土意目利はアイヌの民族語で眺めのよいところ
「さくらいの里」の小桜座は文化・娯楽の中心地だった
北外山入鹿新田・北外山(東新町・緑町を含む)
北外山は大山川の流域の水田地帯だった
北外山・北外山入鹿新田の小字は、川辺や水辺に由来した地名
律令時代からの面影が今も残る外山神社
南外山
南外山の東側は高台の集落で西側は低地の水田
字名は寺社に由来するのが多い
発掘調査で確認された先人の生活文化
春日寺一丁目から三丁目
春日寺の由来は、西行法師ゆかりの寺から
飛行場建設のためほとんどの住民は移転
「小牧飛行場」は小牧山の雄姿から名づけられた
新町一丁目から三丁目
新町地域の美しい田園地帯が住宅地に変貌
新町三丁目には、全国で最小だった公共バス会社がある
小牧原新田・小牧原一丁目から四丁目
小牧原新田は区画整理で五つの町名に分割
旧字名に開墾に懸けた想いが見える
自才の字名で、悲運の開拓者の功績を伝える
間々・間々本町
間々は永禄年間に元町の助郷村に
全国から授乳祈願に訪れる「ままちち観音(間々乳観音)」
間々本町には俳優片岡千恵蔵の住居があった
間々原新田・安田町・山北町
間々原新田には県内屈指のスポーツ公園がある
西狭間はあの「桶狭間」と同じ由来
小さく独立した町、安田町と山北町
村中・村中新町
村中地区は日本の大動脈の起点として発展
巾下川周辺の地名は池や沼地などから命名
小牧ではじめての小学校に誇りを持つ
横内
横内の歴史は新田開発からはじまった
横内は地元名士により耕地整理された
工場誘致で村の形態は変貌した
河内屋新田
河内屋新田は河内国から来た土豪が開発
新田開発の基礎をつくった入鹿六人衆
河内屋新田の十の字名は、新田開発後に命名された
近衛兵から総理秘書官になった人
入鹿出新田
入鹿出新田は入鹿池で水没した村人の移住に由来
白雲山圓昌寺は霊夢により移転
「池」として入鹿池の総貯水量は日本一
西之島(西島町・弥生町を含む)
小牧村の西にある西之島は古代には島嶼だった
雉子野には雉子が多く生息していた
西之島は小牧市工場誘致条例の魁として寄与
舟津・元町一丁目から四丁目
船着場だった舟津は、巾上の段丘周辺にあった
舟津には縄文時代の古墳や惣堀の遺跡が残っている
舟津出身早稲田代議士の立身出世の道のり
元町は小牧宿新設のため移転しなかった集落に命名
三ツ渕
三ツ渕の由来は、入江の水辺に渕ができていたからとか
三ツ渕には新たな産業や団地が誘致された
勅令で建立され修行僧三千人を擁した正眼寺
正眼寺境内には西国三十三カ所観音巡りがある
三ツ渕原新田
正眼寺を取り巻くように開墾された三ツ渕原新田
三ツ渕原新田の小字名は古墳に由来する
味岡地区
久保一色・寺西(久保一色東一丁目から二丁目・久保一色南一丁目から二丁目・葭原・久保新町・久保本町を含む)
久保一色は農耕中心の田園地帯が住宅地に発展
入鹿用水による新田開発が久保一色の原型を形成
寺西は圃場整備事業後に命名された
久保一色に水奉行所があった
坪内逍遥の別荘をモデルに再現された和洋折衷の家
土地区画整理実施後に命名された久保新町・久保本町
田県町
今日の隆盛は田縣神社の奇祭に由来する
新しく小牧市の無形民俗文化財に指定された田縣神社の奇祭
信長も崇敬したといわれる大縣神社と田縣神社
岩崎
岩崎山の五枚岩は県指定の天然記念物
味岡・清流亭の藤棚が存続の危機にある
岩崎の小字名は農地の自然の風景から
岩崎村の庄屋が幕末の皇女和宮の旅を世話
岩崎一丁目・岩崎五丁目
現在の地名は歴史を考慮せず、利便性などで命名
岩崎一丁目はかつて野原や荒地の続く湿地帯だった
新田を開発した人々は新田屋敷に在住
岩崎原新田・岩崎原一丁目から岩崎原三丁目
合瀬川や新木津用水などの恩恵を受けてきた岩崎原新田地域
区画整理で新町名と旧町名とに分かれ飛地を形成
切支丹迫害に遭った人々の碑がある
小松寺
小牧で最も古い歴史を歩んできた小松寺
小松寺の地名は寺と合戦に因んで命名
高松宮殿下が訪問された孵卵場
本庄
愛知県で最初に外国語科を設けた尾関学園
本庄は工場進出地などに変身し、「フレッシュパーク」がある
本庄も入鹿池による用水で恩恵を受けた
八所神社は長崎県の平戸城主の弟が再興
文津
文津は藩士の新田開発により生まれた
文津の地名は湿地帯だった歴史に由来する
薬師寺は農民信仰「おちょぼ稲荷」で繁栄した
東田中
東田中にあった秀吉の砦が工業都市へと変貌
寺社や川、新田開発、耕地整理などに由来する地名
二重堀
二重堀は沼地や水田が開発され集落が形成された
二重堀はキリスト教の布教の地だった
定光寺にも二重堀命名の記録が残存している
篠岡地区
大山(大山中・大山東・大山南を含む)
市内一番高所の天川山は大山川の源流である
字名は大山廃寺跡の南麓に集中している
小牧山に次ぐ、国指定の史跡となった大山廃寺跡
野口(野口島ノ田・野口違井那・野口柿花・野口定道・野口中田・野口惣門・野口友ケ根・野口高畑を含む)
野口には中央自動車道のインターチェンジや愛知用水の地下トンネルがある
野口には清掃工場建設に伴い諸施設が設置された
野口村は江戸時代には成瀬家の知行地だった
野口最高地にある白山神社は上げ馬神事があったところ
源氏天流を相伝する市指定無形民俗文化財の野口棒の手
林(林西・林北・林中・林南・林新外・林野原を含む)
昔の面影を今も残す林地区
亜炭の採掘で一時は活気あふれ、人々が往来した
林地区は山間部と田園地帯などで町名が分離独立
林の三明神社は農耕生活の住民を支えた中核
犬山焼の「中興の祖」尾関作十郎は林村出身
池之内(池之内赤堀・池之内道木を含む)
池之内は多くのため池があったことに由来
寺社は少ないが、名古屋コーチンの祖、海部家の墓地などもある
名古屋コーチンは藩士と住民が協力して誕生した
上末(郷西町・長治町を含む)
上末は須惠→主惠→末→陶から命名
字名は湿地帯や用水があったことに由来
上末にあったカオリン(粘土)の採掘場
下末
小牧宿の助郷としての役割も果した下末村
用水によって整備された集落が地名に
小牧にも円空仏があった
大草(大草七重・大草太良上・大草太良中・大草太良下・大草北・大草藤助・大草一色・大草深洞上・大草東・大草南・大草中・大草西を含む)
大草は開発されたところもあるが、まだ自然が残っている
大草地域の地名は丘陵地の土地景観に由来する
大草城は土豪西尾式部道永が室町時代中期に築城
福厳寺より独立した観音寺は霊水による禅体験の専門道場
福厳寺は、西尾道永の寄進により盛禅和尚により開堂
福厳寺、盛禅和尚の神通力の逸話
日本最古の秋葉三尺坊「火渡り神事」をおこなう福厳寺
大草には狐についての逸話が残されている
大草は大学などの教育機関が集まる文教地域である
大草にも、地元企業や優良銘柄の企業がいくつか進出
大久佐八幡宮の『三十六歌仙絵札』は市指定有形文化財
篠岡一丁目から三丁目・光ヶ丘一丁目から六丁目
伝統ある篠岡は小牧最大のベッドタウンとなった
開発でなくなった緑地帯は公園が代わりを
小牧市役所篠岡支所のセンターは旧役場の庁舎使用から始まる
古雅一丁目から四丁目(桃ヶ丘一丁目から三丁目を含む)
「古雅」は菊の品種から、「桃ヶ丘」は桃源郷から命名
桃花台は、日本の「ふるさと」で動植物の天国だった
桃花台線のピーチライナーの建設とその?末
城山一丁目から五丁目
大草城の一部はニュータウンの城山として独立
新旧住民の融和をはかる「桃花台まつり」へと発展
高根一丁目から三丁目
桃源郷だった高根地域は住宅地として変貌
高根の開拓は戦後の苦難を克服する夢と希望の歴史
農協が整理統合され、高根の開拓の地に本部を設置
北里地区
常普請一丁目から三丁目・市之久田一丁目から二丁目
旧西春日井郡北里村の最北に位置する常普請地域
市之久田は江戸時代には小牧代官所の管轄
小牧飛行場(小牧基地)の拡張に伴い集落移転
外堀一丁目から四丁目
信長時代の空堀に由来する「外堀」
廃仏毀釈時代の宗派争い「亀蔵事件」とは
郷中一丁目から二丁目
農村からスポーツや商業地域へと変身した郷中
今も語り継がれている郷中の伝説
小針一丁目から三丁目
「尾張」発祥の地といわれた小針の地名の由来
空港整備などで集落そのものが変化した小針
下小針天神一丁目から三丁目・下小針中島一丁目から三丁目
「入鹿切れ」の影響を受けた下小針地域
村絵図によると小針巳新田には水田が広がっていた
水田の残る下小針地域は国道四一号線の施設などで変貌
苦難・苦渋の歴史を歩んでつくられた小牧飛行場
国際空港でなくなった空港に宇宙航空産業の芽が
渡邊陸軍大将が北里小学校で閲兵と訓示を
小木一丁目から五丁目
小木の名は平安時代に歌にも詠まれた
在原業平や西行法師が小木を詠んでいる
小木の古墳群からは多くの出土品があった
平手政秀の寺は清洲越えで名古屋へ移転
集落周辺は切添新田として開拓
「小木のデキモノ医者」として有名な「龍庵先生」
小木の中心地には五つの寺院が点在
「小牧・長久手の戦い」で、戦死した森長可を弔う真通寺
小木東一丁目から三丁目
小木東地域は江戸から明治まで新田開発が続いた
小木東地域は旧北里村時代から工場を誘致
小木東に伝わる狐や狸の昔話
小木南一丁目から三丁目
小木南地域の二つの顔 田園風景と住宅団地と
中島は入鹿切れで水難を逃れた小高い丘
小木に居住した丹羽長秀は織田信長の寵愛を受けた武将
長秀の孫・光重は陸奥二本松藩の初代藩主となる
小木(小木西一丁目から三丁目・新小木一丁目から四丁目を含む)
小木の西部は物流一大拠点のトラックターミナル
巾下川の開削・新田開発で整備された湿田地帯
全国初の四文字「尾張小牧」ナンバー発祥の地
藤島一丁目から二丁目(藤島町梵天・藤島町中島・藤島町鏡池・藤島町向江・藤島町徳願寺・藤島町五才田・藤島町居屋敷・藤島町出口を含む)
藤島は集落の立地から命名
古い歴史がある賢林寺の本尊は、愛知県指定有形文化財
かつての面影を残しつつ大住宅団地に変わった藤島地区
多気北町・多気中町・多気西町・多気東町・多気南町
多気の名称の由来は「おおき」から
多気の名は十世紀の「延喜式」にも登場
交通の便が悪かったため、よき慣習や伝統が残る
おわりに 小牧のさらなる発展をめざして
六年にわたる連載が意味すること
小牧には、まだ発展の素地あり
新しい小牧文化発展の礎となるように
現在の町名と旧町・大字など対比表
尾張小牧地方関係と対外的な歴史年表
あとがき |
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