クルーゲルの夏(由宇鞘遠さんのネットノベルから)
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「そこをどいてどいて」 というように突っ走って来て、あるとき家族をもった。それで働くのが楽しくなった。妻とひたきのためなら……。 しかしこうして会社が機能不全に陥ってしまうと急にやることがない。 そこに立っていたのは半蔵だった。やたら太いトチノキの陰から、ゆっくり現れ、片手を頬に当ててこっちを見つめていた。あれから十年経って、当時は生意気な姐さん気どりでうるさい孤児の女の子だった半蔵も、すっかりいい女になっている。スタイルとかも高圧的になっている。 「迎えにきたわ」 半蔵はいった。赤い唇に陣どられた(マスキングされた)大きな口をにーっと開いて笑うと、自分でも予想しなかった懐かしさと切なさがこみ上げてきた。 そうだ。記憶を封じていたのだが、あれは本で読んだことでも、誰かに聞いた話でもない。あの旅と冒険の日々は本当にあったことなのだ。 一瞬にして時間が戻ったようだった。
「でも帰ってくるわよね」 妻は私の決断を黙って聞いてからいった。 「あたりまえだよ。単なる夏休みみたいなもんなんだから、またきみとひたきのために仕事を探して一生懸命働かなくちゃ」 「夏休みだからって、帰らない子もいたわ。川で遊んで溺れちゃったり」 「うん、いた。でもそういう子を比喩につかうのはやめよう。かわいそうだから」 「そうね。そういう子を比喩につかうのはかわいそうだわ」 古い藥箪笥の、座標でいうとx=4,y=7の抽き出しの鍵を開け、フェルトに包んだ銃を取りだした。(4,7)はひたきの生まれた日だ。銃を永遠に封じたはずの日。 表に玉砂利の音がし、ヘッドライトの気配がした。外に出るとワインレッドのマスタングが止まっていた。チンピラがメンチを切っているような顔をしたあの69年型のフェイス。 「はぁい」 真っ赤なスーツを着た半蔵がボンネットの横に立ち、こういった。 「ミント、たちじゃこう草、バジリコの名において」 私は続けた。 「汝から出でて、また汝に帰る」 すっかり昔のように。
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