久米田康治に捧げない
絶望した! 「短歌研究」4月号に絶望した! 私の歌が「事実であるのにリアリティがない」歌として挙げられていることに絶望した! そもそも、この「事実とリアリティ」という特集、批判されているのは死んだ人ばかりじゃないですか! わずかな生存者である加藤治郎と荻原裕幸はちゃんとフォローされているのに、生存者のなかで批判されっぱなしなのは私だけということに絶望した! 「実際にグラウンド・ゼロを見に行き、そこで歌を詠んだ歌人が少ない」とのことですいが、なぜ私がグラウンド・ゼロに行ったと言い切れるのですか! つけていたのですか? 私の後をつけて、私がグラウンド・ゼロに行ったことを確認したのですか? このエッセイが載るころ私は台湾にいますが、まさかついてきてるんじゃないでしょうね! そんなわけには行きません! 絶対にまいてみせます! リアリティなんて怪しいものを気にする短歌を選んだことが人生の過ちだったのです。そうと知ってはもはや一刻も生きていられません! だいたい、この国にはリアリティに疑いがあるものが多すぎるのです。
※リアリティに疑いがあるものの例 ほりえモンの送金指示メール 電車男とエルメスさん 仲間由紀恵のアニメ声優時代 亀梨和也(未成年時)の飲酒 『男塾』における死の概念 キユ先生の次回作 斉藤斎藤の婚約者「木村さん」 黒瀬珂瀾第二歌集
現実とは、一回しか実体験できないから現実なのです! 「私」が現実を観察するのではなく、「私」を含めたその一瞬すべてが現実なのです! だから、どのメディアをどう使っても「現実」は再現できないのです! まあ、「リアリティを与えるのは、作者の視点と表現力だろう」とおっしゃるのですから、短歌における「現実感」がすべてレトリックの産物であるということでよろしいのですよね! だとしたら、なぜ「リアリティ」が詩歌の優劣の価値判断の基準になるのですか! リアリティのある歌は、リアリティの無い歌よりなぜ優れているのですか! リアリティの有無は、その一首の特徴でしかないはずです。リアリティの無い歌は、そのリアリティの無さを特徴とするのです。そもそも、
おおここに高々と「無」が聳えをりグラウンド・ゼロ風吹くばかり [sai]vol.1より という歌に、リアリティがあるわけ無いじゃないですか! 「おお」なんて表現、リアリティに疑い大アリティです! 絶望した! レトリックだ技術といっておきながら、結局、事実と人生がすべての短歌に絶望した! そして、ここを読んでる人のほとんどが『さよなら絶望先生』を知らないだろうことに絶望した! 週刊少年サンデーで連載中なので、あなたも読んで人生に絶望してください!
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